ニラクの歴史
1945年8月 日本の無条件降伏で戦争は終わった。哲義、24歳の時である。
1945年 当時、パチンコ業界は、二年前に出された「企業整備令」によって、パチンコ台が処分され、廃業が相次いでいた。
1946年 1946年に復活したパチンコだが、実態は小さな遊技場が細々と営業しているに過ぎなかった。
1946年 独特の釘配列と「風車」からなるパチンコ台は、爆発的に売れ、全国にパチンコブームを巻き起こした。
水戸偕楽園近くの茨城県水戸市大工町にパチンコ台を並べた。哲義にとって初めてのパチンコ店。1日20円から30円の売上があれば上々だったが、実際はそれを遥かに上回る売上に恵まれ店は大繁盛だった。
その後、哲義は茨城県の太平洋岸、那珂湊(なかみなと)にパチンコ台を持っていって店を始めた。パチンコブームの折から、店の経営は順調だった。
同年、哲義は栃木県真岡市で「パチンコ共楽」を始める。続いて、哲義は「パチンコセントラル」「パチンコラッキー」をオープンさせる。共同経営ではあったが、3店舗とも客足がたえなかった。
順調だった3店舗だが、1954年4月、哲義は「パチンコ共楽」だけを売却し、「パチンコセントラル」「パチンコラッキー」を、親戚に無償で譲り渡した。
店を処分した哲義は、新天地へと踏み出していく。
1954年5月、哲義は福島県郡山に引っ越し、共同経営でニラクホールを開業した。この時代が今のニラクへとつながる出発点であった。
1950年代の終わり、「東北のシカゴ」と呼ばれた郡山で、哲義は歯を食いしばりながら店を続けた。この不撓不屈の精神が、ニラクの礎となった。
1960年はカラーテレビの本放送が始まった年だが、パチンコ業界も「チューリップ」の登場により再び活気づいた。「チューリップ」は翌年には全盛期を迎え、パチンコ人気に拍車をかけた。年々高まるパチンコ人気に後押しされ、ニラクの業績も順調に伸びていった。
1964年は東京オリンピックや東海道新幹線開通で、日本中が好景気に沸き立った。1965年、哲義は、中野駅前に高級クラブや純喫茶も併設した「二楽会館」を、郡山駅前に純喫茶併設の「第一二楽会館」を開業させた。
1970年、大阪万博が華々しく開催され、列島改造ブームが起きた。日本経済は活況を呈し、モータリゼーションが一気に加速。郡山は首都圏や仙台と高速道路で直結した。
パチンコ業界では1972年に郊外型ホールが登場し、立って遊技していたパチンコが椅子に座ってできるようになった。
哲義は、1973年に郡山駅前の「ニラクホール」に「座り島」を導入し、2フロアの店舗へ新築開業した。
1975年には、郊外型の「レジャーセンター」を開業した。
そして、1979年に郡山駅前の第1二楽会館、純喫茶白十字を解体し、国内初のビジネスホテルとパチンコ店併設の施設を開業させた。
結婚式場やホテルを経営するのは、哲義の長年の夢であった。そして、それは同時に晶貴の夢でもあった。
ホテルを経営することで、取引先や異業種との交流が増えた。ただ新しく紹介される時、晶貴は必ず「郡山シティホテルの谷口さん」と紹介された。なぜ「パチンコ店の谷口さん」と紹介してもらえないのか、いつも悔しい思いをした。
1980年、パチンコ業界に「三共」の「フィーバー」が登場した。翌年には羽根ものと呼ばれる「ゼロタイガー」が登場、パチンコ業界飛躍の年となった。
1982年、準備が進められていた東北新幹線が開業。東京は郡山からの完全な日帰り圏内になった。この年のパチンコ店舗数は11,000軒。パチンコ市場は、前年の2,500億円から一気に3兆円産業となった。
1984年、晶貴と弟・龍雄は力を合わせて、当時では珍しい最先端の郊外型大型店舗「パチンコ大輪図景店」を開業させた。
大輪図景店は、それまでの駅前中心の経営戦略から郊外へ主力を移すという新しい経営スタイルの第一歩となった。そしてその推進力となったのは、晶貴と龍雄の兄弟だった。大輪図景店が完成目前に迫ったある日、哲義は黙って専務である晶貴の前に実印を差し出した。哲義の目は語っていた。
-これからはお前達がニラクを背負っていかねばならないのだ-
1984年10月20日。晶貴と龍雄はお客さまを出迎えるべく、「大輪図景店」の店内で緊張しながら開店時間がくるのを待っていた。
ドアを開けた従業員の声が、足音で掻き消された。次から次に人が押し寄せ、店はすぐに超満員となった。二人とも血が沸いて、武者震いが起きた。全部の台がお客さまで埋まったのを見届けると、思わず二人でガッチリと握手した。
父親ではなく、子どもたちが中心となって開業した初めての店の初めての日だった。
1989年。平成になって間もなく、郡山に晶貴、龍雄、そして末弟久徳の三兄弟が集まった。話し合われたのは今後のニラクのことである。
三人で店を分けようか。分ければ簡単だよな。だけどこの厳しい競争の中では、いずれ商売のあり方、経営のし方が問われることになる。ここは三人がスクラムを組んで、ニラクをきちんとした企業にしよう。生業、家業から脱皮しよう!
三人が出した結論は、ニラクブレイクスルー……ニラクは突破する。ニラクは殻を打ち破る。
掲げた目標、「555」……売り上げ500億、総台数5,000台、従業員500人。平成の始まりと共に、ニラクも生まれ変わった。
平成元年、新ニラク誕生。
1992年、パチンコ業界にとって大きな出来事が起きた。プリペイドカードと遊技機を一体化したカード式パチンコ機「CR機」が登場したのである。この年はニラクにとっても大きな転換期となった。
当時、晶貴がいつも考えていたこと。それはー父哲義が始めたニラクは創業から生業、家業となり、無事子どもの代へと受け継がれた。しかし、これからのニラクは企業、それも真の企業にならなければならない。そのためにはどうすればいいのか…。
1992年、「パチンコ大輪万世店」「パチンコ大輪中野新橋店」「パチンコ大輪長原店」を開業。東京を中心に次々に店をオープンさせていく中で、晶貴はニラクの歴史において重要なターニングポイントとなる長期20ヵ年計画を発表する。その中に今後の指針となる経営理念があった。
発表された長期20ヵ年計画は、文字通りこれからのニラクの精神的支柱となるものだった。
1993年、94年と続々と店を開業し、1995年には新卒の採用が開始され、新たな組織作りが始まった。
1996年、「CR大工の源さん」など数々のヒット機種が生まれる中、パチンコ産業は30兆円ともいわれる規模に。
1998年、ニラクは代表取締役に谷口晶貴が就任し、「株式会社ニラク」に商号を変更する。前社長の谷口哲義は取締役会長に就任した。
2000年、「CR海物語」シリーズが爆発的ヒットを記録した。ニラクは2店舗を開業。21世紀となった2001年には5店舗を開業し、次世代のための新しい標準店舗展開のスタートの年となった。
2002年、創業者である哲義は、取締役会長を退任する。そして同年、当時常務であった久徳をリーダーに全社的なオペレーション改革を推進する業務改革プロジェクトが発足した。これは、後の社内教育機関「ニラク大学」へとつながることとなる。
翌2003年には、経営理念「○の経営」を「明るく 楽しく面白く」へ刷新。新しいニラクが大きく動き始める。
2002年、2003年に5店舗ずつ、2004年、4店舗、2005年、1店舗、2006年、4店舗、2007年、3店舗を開業し、ニラクは成長の一途をたどった。
2009年、自民党から民主党へ政権交代が実現し、日本は大きく動いた。ニラクでは代表取締役社長に谷口久徳が就任。あわせて、本部をビジネスセンターと名称変更し、新社屋へ移転した。
2010年、ニラクは「ニラク南相馬原町店」を開業、創業60周年を迎えた。ニラクとなってからは60年だが、そのルーツは戦前にまで溯る。
一人の青年が苦労を重ね、義や誠実(まこと)を重んじながら生きてきた。その証が現在のニラクとなって花開いている。
そして、ニラクで一生懸命働くのは、お客さまのため、従業員のためなのだと。楽は共に分かち合ってこそ楽なのだと。それが永遠に変わることのないニラクスピリットなのだと…。